原帖由 五袋石果 于 2009-11-3 19:54 发表
我的理解,我国古代“中国”这个词表达的含义一直不是很明确,似乎大体指中原地区。其地理外延一直在扩大。按《少年中国说》,则清末时大体可以用“中国”指代大清帝国了。
我想,“中国”这个词最早被赋予确定 ...
延喜式による「近国」「中国」「遠国」の三区分のうち、「中国」に属していたのが名の由来。 文献上の早い例は、1394年に足利直冬が備中、備後、安芸、周防、長門、出雲、伯耆、因幡の8カ国を成敗する「中国探題」としてみえる(「師守記」「太平記」)こと、翌50年に高師泰が足利直冬討伐に「発向中国(ちゅうごくにはっこうす)」(「祇園執行日記」)、54年に将軍義詮が細川頼有に「中国凶徒退治」を命じた(「永青文庫文書」)こと等。南北朝時代中頃には中央の支配者層に、現在の中国地域(時には四国地域を含めた地域)がほぼ「中国」として認識されていた。また中央政治権力にとって敵方地、あるいは敵方との拮抗地域であった。(岸田裕之執筆「中国」の項、『日本史大事典4』平凡社、1993)